第2次世界大戦における日本の駆逐艦「雷」(いかづち)の艦長である工藤俊作は、米沢興譲館高校卒で山形県高畠町出身である。われわれ山形県に住む者は、このような郷里の偉人がいることを知らねばならないと思う。

 何が偉人の所以であるか?偉人とは、私の定義では、後世に語り継がれるに値する行為や事を成した人のことで、行為や事の大小は関係がないと考えている。

 太平洋戦争の真っ只中の昭和17年3月2日、沈められた英国の巡洋艦及び駆逐艦から海に投げ出され、漂流者となった英国海軍将兵422名を救助したのが工藤俊作艦長である。

 戦争中は、自船が敵国潜水艦や戦闘機から攻撃を受けて沈められる可能性が常時あるため、救助しないことが常識であり、敵兵を救助することは相当な決断であったと思われる。実際、日本政府や海軍は、このような行いや工藤艦長を、戦争中はもちろん戦後も一貫して、公に称えることを行っていない。だから、われわれ日本人全員が知らなかったのであるが・・・。

 工藤艦長のことが、なぜ日本で知られるようになったのか?それは、「雷」に救助された英国元海軍中尉サムエル・フォール卿が、英国の新聞「タイムズ」に平成10年に一文を投稿したからである。当時は、英国内では翌年に予定されていた天皇の英国訪問に反対する運動が起きていた。その最中に、投稿したのである。

英国駆逐艦の砲術士官であったフォール卿は、海に漂流していたときに偶然通りかかった「雷」から、機銃掃射を受けて最後を迎えるものと覚悟した。ところが、「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員を救助したのである。キャプテン・シュンサク・クドウは、英国海軍将兵全員を前甲板に集め、流暢な英語でわれわれにこうスピーチをした。

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は、英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争を仕掛けたことは愚かなことである」と。

 「雷」の救助活動では、手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態となったが、上官である青年士官が、後方から号令をかけると、整然と順番を守るようになった。重傷者から救われることになったが、同僚らは最後の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の「雷」乗組員は、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの「雷」乗組員は、自ら海に飛び込み、立ち泳ぎしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救助された英兵の体についた重油を、乗組員が布とアルコールで拭き取った。新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。 フォール卿は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねった。

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、平成8年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。

 工藤艦長は、422名だけでなく、それに連綿と連なる多くの子孫を助けた。膨大な人数である。同時に、われわれに本当の武士道精神とは何かを教えてくれている。

平成29年8月1日   戦争を思い出させる季節に        公認会計士 村山秀幸

※恵隆之介著「敵兵を救助せよ」の本を古本屋で見つけたときは、大変に驚き、また感動した。