私が会計士を目指して神保町界隈を歩いていた昭和61年頃、立花隆が朝日ジャーナルという雑誌に「ロッキード裁判批判を斬る」という記事を連載していた。ロッキード裁判批判は、田中角栄が政治家として有能であり、日本国のために粉骨砕身している大人物をたかだか賄賂性のあるカネをもらっただけで失脚させるのは国の大いなる損失であるという理由で、裁判を批判するものであった。これに対して、立花隆は、裁判批判は全く当を得ていないとして、当時の裁判批判者たちの発言や記事を徹底的に論破したのであった。当時の私は22歳頃であり、青臭く若かった。田中角栄の人物を知らぬままに一方的に毛嫌いしていた。立花隆の論調に全く同調していた。しかし、その頃の私としても、何故、犯罪を犯し、東京地裁で有罪判決を受けた田中角栄が選挙でトップ当選をし続けられるのか、票を入れる新潟の人たちはどこか感覚がズレているのではないか、などと疑問に思っていた。これまで幾度も田中角栄に関する本が書店に並んだが、私は読むに値しないと思い、一片足りも情報を入れてこなかった。今回、何の気なしにコンビニで「田中角栄100の言葉」(宝島社)という本を購入した。
一気に読んだ。私の若かりし頃の疑問は、氷解した。そして、田中角栄に対する評価が自分で意識するほどに変わったのである。しかも、田中角栄が好きになった。
田中角栄と言えば、印象深いのは「イヨッ」のポーズで、いかにも権力者の親分というイメージであったが、マスコミに対しても自分への批判者に対しても、反論したりする印象がないのは、次のような言葉で分かる。
「人の悪口は言わないほうがいい。言いたければ便所で一人で言え。自分が悪口を言われたときは気にするな。」
ロッキード事件以降、自身はメディアからあれほどの攻撃を受けていたにもかかわらず、角栄が個人を名指しで批判した言葉はほとんど見つけられない。
また、裁判中の状況にありながら、次の言葉を言えたのである。(太字の部分は、上記の著作から引用した。)
「お前も宴会には顔を出さなくていい。みんな若いんだから羽目を外して楽しませてやれ。宿舎に帰るバスも手配しておくんだ。」
田中角栄が軽井沢でゴルフをする際はいつも、40人近い長野県警の警察官が元総理でロッキード事件の被告の「警護」に当たるのが常だった。ゴルフが終わるとパーティがある。角栄は秘書の早坂茂三を呼び、人数分の白封筒を渡すと「若い警官たちを楽にさせてやれ」と配慮を忘れなかった。翌朝、警官たちは東京へ戻る角栄を敬礼で見送ったという。そのなかには涙ぐんでいるものも少なからずいたという。
(現在の倫理観からすると、現金が入っていると思われる白封筒を渡すのはどうかと思うが、この点を私が評価しているのではない。いつも角栄が自身の回りの者に対する配慮を忘れない点はすごいことだと思うし、この点こそ評価するものである。)
「仕事をするということは文句を言われるということだ。ほめられるために一番良いのは仕事をしないこと。しかし、それでは政治家はつとまらない。批判を恐れずやれ。」
「学生運動を繰り広げる若者がいる。経験が浅くて視野が狭いが、まじめに祖国の先行きを考え心配している。若者はあれでいい。」
「農林省の役人はコメ問題の権威かもしれない。しかし、情熱がない。田んぼのなかに入ったこともないような者がコメのことを分かるわけがない。」
「人間は誰しもできそこないだ。しかし、そのできそこないを愛せなければ政治家はつとまらない。そこに政治の原点があるんだ。」
「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる。」
生粋の尋常小学校卒の宰相は「弱者への眼差し」が通底している 公認会計士 村山秀幸 田中角栄100の言葉(日本人に贈る人生と仕事の心得)別冊宝島編集部 より